フィールドコートで行うスポーツでよく見る光景。
ある選手がパスを出して、そのパス交換がうまくいかなかった時に、「ごめんっ!」っていう光景。
パスの出し手も受け手も両方が「もう少しこうしておけば・・・」という反省の意が込められた一瞬。私はあの一瞬の光景が結構好きです。(チームの攻撃が上手くいかないことが好きなのでは無ありません・・・)
たまに何も考えずセリフで言ってるだけだろう!って思う時もありますが、それも含めて好きです。
反対に、パス交換が上手くいかず、お互いコミュニケーションを取らず、不貞腐れた態度で次のプレーにうつる光景。これは良い状態じゃないなと思ってしまう。「ごめんっ!」が言えない。
もちろん、トップアスリートであればあるほど、「そんな謝罪をし合っている時間はない」と言われるかもしれませんが、私は違うと思う。
建設的な議論は「ごめん」から始まると考えるからです。
ある意味「ごめん」はスタートになる。
日常生活でも子どもに「ごめんなさい」や「ありがとう」をちゃんと言えるようにと教育しているつもりですが、中々言えないときがある。でもその言葉の大切さは分かってそう。
そういえば、自分も素直に言えない時ってあるなぁ・・・。
「ごめん」と素直に言えるときとそうでないときの違いって何だ??
一杯一杯な時って「ごめん」って言えない気がする。
子どもはいろんな刺激を受けているから一杯一杯になっているのかも・・・。
一杯一杯にならないように自分の容量を増やすにはどうしたら良いのか?・・・っていうか、そんな簡単な問題か?
妙に気分良く、清々しく「ごめんなさい」を言えた経験がある。そういえばその時って、めちゃめちゃ心が満たされていたように思う。
ってことは謝れないのは、何か自分の心が満たされていないときなのか?
犯罪とか素直に認められないときも一杯一杯なんだろうか・・・。
自分が絶対悪いときに謝るのは当たり前(悪いと理解できていない時があることも問題ですが・・・)。
相手も悪いが、自分も悪いかもしれないときに「ごめん」を言えるかどうか。
もし、何かに追われるように一杯一杯であることが謝ることの弊害になるのだとしたら、一杯一杯の原因は何だ・・・?
一杯一杯にならずとも生きていける世の中であることは大事なんじゃないかな。
スポーツのプレー中も、人間社会の日常でも同じだと思う。
「ごめん」はスタートになる。
「ごめん」を言えるには、一杯一杯ではなく余裕がある状態が望ましい。
皆がそうなれる社会になるには、私に何ができるだろうか・・・。
目の前の人の助けになることがまずできることだな。この仕事も悪くない。
よーし!!では行ってきます。