考える部屋 てらブロ。

スポーツ・医療・教育 をテーマに考え中。

なぜ頑張れるのか?について考える。

「ご無沙汰しております。」「お久しぶりです。」

今年に入ってから、そんな言葉をよく口にします。

本当に有難いことに、昔お世話になった人や学生時代の友人から久しぶりに連絡をもらうことが頻発しております。

単純に「元気か?」だけでなく、仕事として協力できないか?などの発展的なお話ばかり。・・・なんかステキな予感。

感謝すると同時に、こういったつながりを大事にしなきゃな・・・と身に染みて感じます。

昔は同じ組織で頑張っていた仲間も、時が経ち、それぞれの道に進み、別組織ではあるが、立場を変えてまた一緒に仕事ができる・・・そんなことが多くなってきたように思います。

こんな喜びに出会えるとは、自分も年を重ねてきたということか・・・。

年をとるのも良いもんだ!(まだまだ30代の若造です)

「俺は充実してるぞ!」・・・と自慢したいわけではなく、20代を(自分なりに)頑張って良かったと思えたという話です。

今もそのつもりですが、何かの為に頑張れた過去を大切に思えます。

「頑張る」というのは、嫌なことを耐えるという意味ではなく、自分が良いと思ったことにチャレンジできるという意味です。

なぜ(自分なりに)頑張れたか?について。

私は家族の存在が大きいと思います。

私が頑張ることを頑張ってサポートしてくれました。本当に感謝です。

私の場合、頑張ることは仕事についてでしたが、学生なら勉強や部活動もあるでしょう。

何かのため(特に自分以外のため)に頑張るときって、一番身近な集合体(私の場合は家族)のサポートって本当に重要だと思います。

そのサポートのおかげで自分自身が安定しているから、誰かや何かのために頑張れる。

自分自身の何が安定しているのか。精神的なのか、経済的なのか、人間関係なのか・・・そういえば、財布の中が潤っているときは奢りたくなるなぁ!(笑)

チームや組織でも同じことが言えると思います。

何かのプロジェクトを実施する上でいろんな意味で安定したチームでないと、社会に対して良いことやるぞ・・・という発想に繋がらない。

それにはチームを管轄する組織のサポートは大切。

個人でもチームでも、身近な集合体のサポートって大事だわ。

まぁよく考えると、自分が何かの為に頑張る側なのか、サポートする側なのかは見方が違うだけで、お互い様だなと心得ておかないとな。

「安心してチャレンジできる」って最近の好きな言葉です。

そういった社会になるには、各々がサポートする側を積極的にしないといくべきだと考えます。短期的な見返りを求めずサポートする。特に大人がそれをやらなければいけない!・・・と少し熱くなり過ぎました・・・。

こう思えるのも自分をサポートしてくれている人のおかげかと思う・・・あれ?話が1周してきたなぁ。(笑)

要するに、安心してチャレンジできる仕組みをつくることで、良いことやるぞ!という発想が生まれやすいのではないか?という私の仮説です。

それが、頑張れる源!!

 

「ご無沙汰しております。」「お久しぶりです。」

「いやぁ~、それ良いですねぇ。よしっ!それ一緒にやりましょう!!」

 

よーし!!では、行ってきます。

 

「仕事」について考える

先日、教員免許取得を希望する人が昔よりかなり少なくなっている・・・というニュースを聞きました。

少子化ということもありますが、先生って大変そう・・・と見えているのも影響しているのでしょうか。

私も一応、先生と呼ばれる職に就いていますので、教える世代は違うにせよこのようなニュースは残念に思います。

今日は「これが俺の仕事論!」・・・的な話をしたいと思います。

私が仕事について考える時「仕事」「作業」に分けて考えます。「作業」という言葉を使うと雑なイメージが付いてしまいますが、決してそうではありません。

「目的」と「手段」のような分け方にもできるかもしれませんね。

要するに、・・・僕の「仕事」は○○を△△にしていくことです。

そのためには、××や◇◇等の方法があり、僕は××という「作業」を行っています。

・・・といった感じの流れです。

「仕事」は対象になるものが必ずあり、その対象にどうなってもらいたいか?が重要になります。飛躍していくと、志や野望?的なものになるでしょうか。

そして「作業」「仕事」を達成するための手段や方法であると考えます。

私は将来に悩む学生と話をすることが多いのですが、「作業」の部分のみを見て将来どうするかを考えている(良い職業かどうかを判断する)人が多いように感じます。

少し残念・・・。

「作業」を勉強するのは素晴らしいことですが、「仕事」の部分を本気で考えているかを自分に問いただしてほしいものです。

 

授業したり、生徒の面倒見たり、保護者の対応したり・・・といった「作業」は本当に大変だと思いますが、

人の成長過程の大部分の時間に関ることができて良い大人を沢山育成できる「仕事」は良い職業だと思いますよ!!

大前提に「仕事」があり、それに沿った「作業」がある。この流れが一貫していて、自分が納得できていると楽しいぞ!!

 

でっかい話をすると、全ての業種の「仕事」って、結局は人を喜ばせたり、楽しませたり、成長させることだと思うんです。

その「作業」が教育なのか、医療なのか、何かの商品を通じてなのか?等いろいろ。

その中には、人に直接関わる業界もあれば、間接的に関わる業界もある。

大きな意味で「仕事」は共通している。

その根本の「仕事」を考えられるようになるにはどうしたら良いのか・・・?

考え中・・・。

 

幼稚園児の息子が「パン屋さんになりたい」と言います。

特別パンが好きなわけでもないし、パン工場に連れて行ったことがあるわけでもありません・・・。

理由を聞いてもハッキリ答えてくれません。(まぁまたそれが可愛いもんです)

まさかっ!・・・自分がパン屋さんになることで、正義のヒーロー(○○パンマン)をたくさん作って世界を平和にしようと考えているのでは・・・と親バカの妄想タイムが始まりました。(笑)

 

よーし!!では、行ってきます。

 

 

 

運動とスポーツについて考える

コロナ渦以前から体重増加傾向にあったにも関わらず、「コロナ太り」と言っている、そこのあなた!!・・・私自身でした・・・。情けなく思います。

「先生、最近貫禄が出てきましたね」「先生、ラグビーでも始めましたか?」など、いろんな声をかけていただけてます。

人との会話が減っている現状なので、そういった声掛けも嬉しく思えてしまいます。

「先生、最近太りましたねぇ」・・・なかなかダイレクトに発言する学生。「いや~、嫁さんの料理が美味しくてさぁ。」と私が返す。このやり取りが定番になってきています。

スポーツや医療に関わっている身として、このままではイカ!!と思い、時間を作ってウォーキングやジョギングを開始

しっかり汗をかくことの気持ち良さを思い出しました。

健康のためにウォーキングや有酸素運動は良い!・・・というのは一般化されてきています。

健康のために運動をするというのは、理論的に大事だと分かっていても、私自身が実際に自分の健康を目的に運動をするのは初めてに近いです。(健康を気にする年齢になったということか・・・)

 

情けない話ばかりしてしまいましたが、私も運動やトレーニングを指導する側になることもあります。(なんてこった!)

そこでいつも考えること・・・

「〇〇の為に運動は良いですよ」「運動は△△の予防に良いですよ」というセリフをよく言ってしまうのですが、いつも違和感を持ってしまいます。

何かのため・・・。

何かのためというより、運動やトレーニング自体を好きになってもらえたらなぁ

好きで楽しくて仕方がない運動やトレーニングを行っていることで、結果的に健康になってました・・・という流れにならないものかなぁ?

それが、スポーツってことなのかなぁ・・・。

指導する側の腕の見せ所のような気もします。

ここで気付きました。

子供の頃や学生時代は運動ではなく、スポーツをしてたんだ!と。

目的が明確なものを運動やトレーニングとするならば、身体を動かしたり、その競技を実施すること自体が目的になっていることがスポーツではないかと考えました。

運動やトレーニングも皆にとってそうなってほしいな・・・。

でも、若い頃にスポーツを通して辛い経験(本当に精神的にも肉体的に害すること)をすると、大人になってスポーツそのものが好きという状態にならないでしょうね・・・。そのまま運動やトレーニングも嫌になっちゃうか・・・。

外から見るとスポーツだけど、何かのためにスポーツをやっている(嫌々やってる若い子たちもいるかも)人が多い状態では、「スポーツ文化にはまだ遠いですかね・・・。

 

ウォーキングの楽しさは実感できていますが、今のところ体重には変化なし!(笑)

 

よーし!!では、行ってきます。

ある本屋さんについて考える

「俺は読書家だ!」・・・と偉そうに言えるほどではありませんが、私は読書が大好きです。大好きになったという方が正しいでしょうか。

小学生の頃は国語が一番嫌いで、1冊の本をきちんと読んだことがなかった自分が、大人になって読書が好きになるとは思ってもいませんでした。

付き合いの長い嫁さんからも、「人って変わるもんやねぇ」とよく言われます。

お小遣いのほとんどを本に使うので、嫁さんにはよく怒られます。(笑)

大きな悩み(私にとっては)に出会った時に、ある本に救われた経験があったからこそ、読書に魅力を感じたのだと思います。(よくある話過ぎて面白くなくてスイマセン)

私が読書や本にまつわることについて、唯一自慢できる??ことがあります。

ある本屋さんの最後の客になったことです。

要するに閉店日の最後の客ということです。

その本屋が閉店したことは、私にはとても寂しい出来事でした。

どんな本屋さんだったかというと、駅前でこぢんまりしていて、決して綺麗でもなく、店員さんの愛想が良いわけではなく、特別品揃えが良いわけでもない店です(なんじゃそりゃ)

ラジオがかかっていて(おそらく店長が聞きたいから)、店内の香りは良くもなく臭くもなく、感情には何も影響を与えない香り。ラジオの音以外に聞こえるとしたら、店長の低めの擦れた声での「いらっしゃいませ~」と、「カチカチ、スース―」といった店員さんの作業音。

別にこの店をディスってるわけではありません。

私はなぜかこの店に惹かれていました。大きな書店では買おうと思わなかった本も、ここでは買いたいと思えた時もありました。いったい何に惹かれてたんだ・・・?

飲食店でも、特に美味しいわけでもないし、店員さんの対応が良いわけでもないが、落ち着くし、つい行ってしまうお店ってありますよね。その感じです。

「自然体」そんな言葉がフィットするように思います。

外観や店員さんの対応、品揃えなどが何かがずば抜けて良いわけでも悪いわけでもなくギャップもない。等身大なんだろうなという印象

店員さん含めて店自体が、あたかも人間かのように自然体でいるような感じだったなと今になって思います。向上心が無いっていうとまた違う気もするんですよね・・・。

ってことは自分は自然体のものが好きってことなのか?

その店の最後のレジ対応をしてもらったときに、「閉店するんですね・・・。何か分からないんですけど、このお店好きでした。有難うございました。」と転校する子に告白するような気持ちで別れを告げました。私にとっては良い本屋だったなぁ。

いやぁ~、今日は自然体でブログを書いてしまったなぁ。(笑)

 

よーし!!では、行ってきます。

「ごめん」を言えない時について考える

フィールドコートで行うスポーツでよく見る光景。

ある選手がパスを出して、そのパス交換がうまくいかなかった時に、「ごめんっ!」っていう光景。

パスの出し手も受け手も両方が「もう少しこうしておけば・・・」という反省の意が込められた一瞬。私はあの一瞬の光景が結構好きです。(チームの攻撃が上手くいかないことが好きなのでは無ありません・・・)

たまに何も考えずセリフで言ってるだけだろう!って思う時もありますが、それも含めて好きです。

反対に、パス交換が上手くいかず、お互いコミュニケーションを取らず、不貞腐れた態度で次のプレーにうつる光景。これは良い状態じゃないなと思ってしまう。「ごめんっ!」が言えない。

もちろん、トップアスリートであればあるほど、「そんな謝罪をし合っている時間はない」と言われるかもしれませんが、私は違うと思う。

建設的な議論は「ごめん」から始まると考えるからです。

ある意味「ごめん」はスタートになる。

 

日常生活でも子どもに「ごめんなさい」「ありがとう」をちゃんと言えるようにと教育しているつもりですが、中々言えないときがある。でもその言葉の大切さは分かってそう。

そういえば、自分も素直に言えない時ってあるなぁ・・・。

「ごめん」と素直に言えるときとそうでないときの違いって何だ??

一杯一杯な時って「ごめん」って言えない気がする。

子どもはいろんな刺激を受けているから一杯一杯になっているのかも・・・。

一杯一杯にならないように自分の容量を増やすにはどうしたら良いのか?・・・っていうか、そんな簡単な問題か?

妙に気分良く、清々しく「ごめんなさい」を言えた経験がある。そういえばその時って、めちゃめちゃ心が満たされていたように思う。

ってことは謝れないのは、何か自分の心が満たされていないときなのか?

犯罪とか素直に認められないときも一杯一杯なんだろうか・・・。

自分が絶対悪いときに謝るのは当たり前(悪いと理解できていない時があることも問題ですが・・・)

相手も悪いが、自分も悪いかもしれないときに「ごめん」を言えるかどうか。

もし、何かに追われるように一杯一杯であることが謝ることの弊害になるのだとしたら、一杯一杯の原因は何だ・・・?

一杯一杯にならずとも生きていける世の中であることは大事なんじゃないかな。

スポーツのプレー中も、人間社会の日常でも同じだと思う。

 

「ごめん」はスタートになる。

「ごめん」を言えるには、一杯一杯ではなく余裕がある状態が望ましい。

皆がそうなれる社会になるには、私に何ができるだろうか・・・。

目の前の人の助けになることがまずできることだな。この仕事も悪くない。

 

よーし!!では行ってきます。

「バトンを渡す」から考える

数年前、中学生陸上競技の全国大会に関わることがありました。

ケガをしている選手の対応をする仕事です。

私は陸上競技に関して詳しくないので、とても新鮮でした。

選手たちのリレー競技直前練習での過ごし方を見ていて考えること。

一般的なのかどうかは分かりませんが、4人がずーーーっと縦に並んでバトンの受け渡しの練習をしている姿はとても印象的でした。

バトンの練習をしているというより、生活の一部にバトンの受け渡しが入っている感じでしたね。選手同士で世間話をしているときも、先生の話を聞いているときも、4人が揃っていればいつ何時も・・・という具合です。

なるほど・・・。その受け渡しの一瞬に大きな責任が伴うんだなと気付かされました。

私はサッカーをやっていたのですが、一回のパスの受け渡しにあそこまで魂を込めていたかというと・・・そうでもなかったです。(だから5流だったのか。笑)

4人の頑張りを繋いでゴールを目指すリレー。教育者である(一応)私の世界に置き換えると、ちゃんと授業がバトンになっているか?と考えさせられました。

スポーツ業界(トップアスリートはもちろんその他も)を良くしていこう!という方向で走っている中で、その考えや知識(技術)を、バトン渡しのような責任を持って伝えられているか?ということ。・・・まだまだできるな。

まぁ授業だけでなく、人に何かを伝えるときはこのバトン渡しくらいの責任を持ってやらにゃならんな。

でもこれって、伝えられる側の準備も必要ですよね。リレーでいうと適切な助走を取りながら良い角度で腕を伸ばす準備です。

結局、ちゃんと伝わるか伝わらないかは、どちらも準備が必要。とはいえ、現実は「聞かない学生が悪い」、「あの教員は分かりにくい」などで考えが滞ってしまう。それぞれの意見を言うのは良いが、自分側に改善できることはないか?を考えなければ・・・。だって、ちゃんと伝わるにはどちらも準備が必要なのだから。

それぞれの意見が表に出てくる状態って、何かお互いが繋がっていない気がしますよね・・・。

「周りを変えたいなら自分が変われ!(行動しろ)!」と教えてもらったことがありますが、まさにその通りだわ。

 

よーし!!では行ってきます。

大人になるとは

本日は成人の日

成人を迎えた皆さん、本当におめでとうございます。

今年はコロナ渦の影響で式典を快く実施できないのが、非常に残念でしょうね・・・。

何事もそうですが、このような大変な状況で感じた、考えたことは後の大きなパワーになるでしょう。この状況で成人になった皆さんが考えたことが、社会に良い方向に反映されることを期待します。

 

成人の日を迎えて、「大人になるとはどうゆうことか?」について考えること。

私は「良いと考えることを自分が出発点として実施できる」ということが大人であると考えます。

こんなことを考えたきっかけは、山田ズーニー さんの書籍「理解という名の愛が欲しい」でした。その中で人の悪意は連鎖するというお話があります。自分が誰かに悪口を言われると、自分も誰かに悪口を言ってしまう。またそれが人へと連鎖され・・・と繋がっているのではないかと。その悪い連鎖を自分のところでストップさせられることはとても大切なことではあるが、精神的にも肉体的にも負担が大きい。自分が良い循環を作り出して、良い連鎖を生んで、周りから支えてもらうことも必要だと述べています。

とても感動しました。

良いことを自分が行い、それが結果的に良い循環を生んで、自分も支えられる。その良いことを名実ともに自分から行うことができるのが、20歳くらいなんでしょうかね。

 

大人になると、理想と現実の違いを突きつけられます。年を重ねると、その理想を見失っていくことに嫌気がさします。「現実は違うんだよ!」というセリフが出てしまうのは、本当に大人になった証拠なのか?と疑問に思います。

「そんなきれい事・・・」とよく言われますが、私の持論は、きれい事はきれいから良いきれい事を実現する為に工夫することが大人の役目ではないか・・・です。(きれい事から目を背けることが大人ではない)

どんな小さなことでも、良い循環の出発点になる覚悟(これが大人?)があり、それに夢中になる姿勢(ある意味子供心)が備わった時に本当に良い大人になるんだと考えます・・・自分もまだまだだな。

 

このコロナ渦の中では、自分の行動の自粛が皆の為になることが明らかです。

その行動をできている皆さんはもう立派な大人ですね。良い循環生みましょう!

 

よーし!!では、行ってきます。